彫刻、絵画、詩等多方面で活躍。「智恵子抄」等の詩集が有名で、教科書にも掲載されるようになったため詩人として認識されることもあります。高村光太郎は、東京美術学校彫刻科卒業後、研究科に進み、さらに西洋画科に再入学したがまもなく退学します。岩村透の勧めで1906年に、彫刻を学ぶため留学に出ます。ニューヨークに1年間、ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年に帰国。日本の美術界に不満を持ち、父にも反抗、東京美術学校の教職も断わったといいます。「緑色の太陽」(1910年)は、芸術の自由を宣言した評論でもあります。1956年に結核のため死去。この高村光太郎の命日(4月2日)は、連翹忌と呼ばれています。
<お墓の所在地>
〒170-0003
東京都豊島区駒込 染井霊園
TEL:03-3918-3502